中島翔哉の人生から学ぶ①

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2019年冬の移籍市場で日本人最高年俸でカタール王者アル・ドゥハイルへ移籍した中島翔哉選手(24歳)。サッカー選手のキャリアはまだ道半ばですが、中島選手のこれまでの人生から①ではプロになれた秘訣、②ではプロとして成り上がれた秘訣を学びたいと思います。

プロになるまで(高校3年生でプロ契約締結)

6歳の時に松が谷FCでサッカーを始めた中島選手。人見知りな少年で、松が谷FCでは技術も初めは他の子供たちとそう変わらず、特別目立つようなことはなかったそうです。唯一の違いは「負けるとすぐ泣く」こと。監督も絶対に負けだけは嫌だと気持ちを剥き出しにして豹変する子は見たことがなかったそうです。

小2で東京ヴェルディ1969のスクールにも所属。更にはフットサル教室にも通っていたそうです。スクールに入ってからずっとトップチームを目指していたとプロ契約時に言っています。

小学5年生時に700人の受験者からわずか3人ほどしか合格しない東京ヴェルディ1969の下部組織に合格。中学時代は同ジュニアユースに所属、なんと中学時代にはブラジルへのサッカー留学を3度経験しています。

2010年より同ユースにも昇格し、高校1年生なのに東京選抜に選ばれていて、国体で優勝。

高1で東京選抜に入るなんてこの時期にはもう同学年よりも突き抜けた存在だったと予想できますね。

高校1年と2年の時にはクラブユース選手権を2連覇してベストヤングプレーヤーにも選ばれています。同年にはU-17日本代表に選出されU-17ワールドカップに出場しました。

そして2012年の高校3年生の時に見事にプロ契約を結んでいます。

異常なまでの練習量と強い決意

高校3年生の時点でプロ契約を結ぶなんて経歴からみて挫折なく凄く綺麗な経歴でプロまで駆け上がっていますね。

中島翔哉選手は身長164㎝64kgと体格に恵まれている訳ではないですが、「天井知らずの向上心」と「練習の虫」とも言える異常な練習量でドリブル、パスなど個人技を磨き、スキルとスピードで体格のハンディを補ってきました。

中島選手はその場で出来なかった技術を1週間後に確実にマスターしてきたそうです。練習の無い日は公園でドリブル練習、学校では授業中にボールを触っていたり、学校が休みの日も校庭に侵入してサッカーしていて職員室に何度も呼び出されるなどのエピソードもあります。

中島選手は6歳の時期に両親が離婚し母子家庭で育っています。母親は借金を背負い、勤め先の倒産に遭いながらも働き女手一つで最大5つものサッカースクールに通わせていたそうです。

母親のためにプロになりたい!!という思いは誰よりも強かったと思います。プロ契約を結んだ時に「いつか大きな家を買ってあげるね」と約束し、五輪メンバーに選ばれた直前に母に内緒で都内に一戸建てを買ってプレゼントしたそうです。

まとめ(中島翔哉選手のプロになれた秘訣)

中島選手がプロになれた秘訣は

・負けず嫌いにな性格と異常なまでの練習量

背が小さいから、、、足が遅いから、、、(僕もその一人でした)といった言い訳をせず。異常なまでの負けず嫌いの気持ちと練習量で技術を磨き、体格をハンデとせず技術を習得したこと。

・母親のためにも絶対にサッカー選手になるという強い気持ち

母親や周りのサポート無くしては中島選手はここまでサッカーに打ち込める環境は作れなかったと思います。その苦労して中島選手に尽くしてくれた母親への恩返しの思いと強い気持ちがあったからこそだと思います。

こうした強い気持ちで周りの環境や誘惑に流されることなく、技術を磨いて一気にプロ契約まで駆け上がってましたね!!

僕は当時は華やかな高校生活という青春の誘惑に流されてましたねーーーー(泣)


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